Bloody Mary - blog

Bloody Mary 別館

命あっての物種

今年のクリスマスは連休が作れたので、実家に顔を出しに行くことにした。

2泊した帰り道。

ホワイトクリスマスで一部の人間が喜ぶ中、青森から仙台に向かう高速は、事故車が相次いでいた。八戸自動車道から南の高速は、強風でホワイトアウトするわ、横風で車がスライドするわ、雪がちらちら降ってきて集中力が削がれるわ、最悪の状況だった。

そんな中、左車線を 100km/h 以下で走っていると、横風にあおられて車がスライドし、左に溜まった雪に、タイヤが少し乗り上げてしまった。すると車は右に押し返され、ノーズが右回転を始めた。アクセルを抜いて小刻みにカウンターを当てたものの、回転が止まらないのでさらにカウンターをあてたところ、 90°右回転して真横を向いたところで、今度は左回転を始め、慌ててまた逆にカウンター当てたものの、車はハーフスピンして、見た目逆走である。

どこにもぶつけず停まれたし、後続車もなかったのでラッキーだったが、その日はハーフスピン ( 実際は 270 度だが ) 事故が 1 回、そこまでは行かなくても、 1/8 くらいのスピンを 2 回やって、本当に生きた心地がしなかった。ちなみに 1/8 スピンは 80km/h 以下の低速走行中で起こっている。だからこそ立て直しが効いたのだろうが。

その日は 3 件くらい事故車を見た。

結果は保証しないが、以下のようなやり方で運転してきた。

  • MR-S での雪道高速走行は常に滑っている状態。滑りを感じたら、即座にアクセルを抜くこと。イメージ的には、ポンピングアクセル。
  • アクセルを抜いた状態でも、運悪くスピンを始めたら、ポンピングブレーキをすること。うまくいけば立て直せる。それで復帰できたので。
  • ちなみにハーフスピンのときはアクセル抜いていただけで、ポンピングブレーキはしていなかった。車の速度を速やかに 0km/h にすることが重要だと思う。
  • それ以前にスピード出すなボケェ。
  • でもだいぶ経験値上がったw

今年最後のぼやき

エコ

今年は太陽が頑張りすぎたせいで、長い間、夏が幅を利かせていた。そのせいで今年こそはと思っていた紅葉狩りのタイミングを逃してしまい、悔しい思いをしている。会社帰りの銀杏並木や、高速の PA(パーキングエリア) で真っ赤な紅葉を見たが、いまいち納得していない。来年こそはがんばろう。

季節は冬を迎えた。

11月くらいに、「今年は冬が早足で通り過ぎる。 12月に大量の雪が降り、 3月には融けてなくなるだろう」と聞いた気がするが、そんなことはなかった。 12/17 時点で、宮城県周辺のスキー場の積雪は 20 ~ 30cm。やけくそ気味にオープンはしているが、ソリで遊ぶのがせいぜいといったところ。スノボで間違って転んでしまい、下に石なんかがあった日には、膝の皿が割れたんじゃなかろうかというダメージを受けるのは必至である。かく言う私の人生初スノボがそれだ。

このような状況下で、私のボード・フィーバー(熱) は燃焼せず、スノボ用品で散財して景気回復に一役買いたいという気分にならなかったのは、致し方のないことである。無駄遣いしなかったせいで、車検も任意保険も火災保険も生命保険も支払って、手元にはいくばくかのお金が残る計算 (複式簿記で家計簿つけているので分かりたくないのに分かってしまう) だ。非常に珍しい現象である。いつもはマイナス側に振り切っているのだが。

こうして、今年末は若干の余裕があった。しかし、実家への経済支援 (家人が失業中) もあるし、私だけ無駄遣いするのも気が咎める。自分で稼いだ金だからそんな気分にならなくてもいいはずなのだが、現在進行形で慎ましく暮らしている家人のことを思えば、余った分は振り込んでおくかという気分にならないこともない。何というか、枯れてしまった感がある。

月にさほど多くの給料を貰っているわけでも、ボーナスが出ているわけでもない。年金なんて出ないと思っているから老後の見通しは立たないし、貯金だってない。借金がないだけマシな状態だ。とはいえ、実家に仕送っているから、金銭的に余裕があるわけでもない。

それでも、毎日シャワーを浴びて、たまに湯船に浸かって、温かいご飯が食べられて、冷たいアイスやデザートで幸せになって、スノボに行けるくらいはお小遣いがあって、猫だって飼えるゆとりがある。

それ以上、何が必要なのだ?

私はキャンプが好きである。山登りでもいいが、キャンプに行くと、如何に今の生活が便利なのかを、理解させられる。日常生活で何気なく使っている道具が、人類の英知の結晶であることを実感するのだ。

日常生活において、蛇口を捻れば水がでるし、コンロを使えば火が点く。米も簡単に炊けるし、シャワーでお湯も使える。汚した服は洗濯機が洗ってくれるし、もしかしたら乾燥までしてくれるかもしれない。温かい布団で安眠し、暑ければクーラーや扇風機で涼を取る。

今の日本では当たり前のことかもしれないが、キャンプに行くとこれら全てを自分で用意しなければならない。水場のないところでキャンプをしようものなら、何リットルものペットボトルを持参しなければならない。バーナーを忘れれば、竈を組んで火を熾さなければならない。しかも、そこらの枯れ木を拾い集める手間がかかる。乾燥していればいいが、湿った木は煙いだけだ。温かく寝たいならテント・シュラフ・マットと工夫しなければならない。

お金があれば、そういった道具を購入できるから、今の世の中は凄いと思う。食べ物もそうだ。稀少な肉でもお金を出せば購入できるし、スーパーの野菜コーナーには見慣れた野菜のほかに、食べ方のわからない野菜が一角を占め、日本人の心でもある米は、品種改良を繰り返して美味しくなっていく。これらを自分で穫ってきたり、育てたりするのはまず無理だろう。

原始生活をしなければならなくなったとき、おそらくこれらのほとんどを用意できないだろう。それは快適な生活ができないばかりでなく、生きることが困難になるということだ。そのことを考えれば、今の生活の何と幸せなことか。江戸時代あたりの (に限らず昔の) 日本に生まれなくて心底良かったと思える。

「もの」があるということは、それを作るために苦労した人々がいるわけで、お金を払って正当に手に入れたものであっても、常にありがたい、とか、やるなあとかいう思いを抱いていたいものだ。それこそが、エコ以前の精神、感謝の気持ちというものだろう。

故に私は思う。

エコエコうるせーんだよw

ゴミの分別も、大量のゴミを出すところも、まだまだ日本は中途半端だ。とりあえず、いただきます、ごちそうさまあたりの精神的支柱を育てて欲しいものだ。

ちなみに私は、いただきますとか言わないのだが、言わないからといって感謝していないわけではない。

それこそ個人の自由というやつだ。しかし、知っていてやらないのと、知らないでやらないとでは、前者の方が個人の意志が入っている分、ましだと信じたい。

保護団体

鯨とかを保護する団体ってどの面下げて保護保護言ってるのだろう? 何で特定の対象だけなの? 命に重みがあるの? どうやって重みをつけてるの? 独断なの? 対象以外の命は価値が低いの?

私菜食主義だから動物殺さない、とか、意味不明な優越感を持っている人がたいていこういう職業の人に釣られたりする。菜食人だろうが肉食人だろうが、食べるために獲っている人間に、生態系が狂うからという理由ならまだしも、鯨やイルカは頭がいいから獲るのは野蛮とか、可哀想だから獲るな、なんて言う資格はないわけで。

人間は感情が入ると途端に狂った行動をするから、それに付き合わされる人たちは大変ですね。

妙な感情論を振り回している人間だって、絨毯を歩けば一踏みごとに数十・数百単位のダニを殺すわ、蚊取り線香で蚊は殺すわ、車で蛙を踏み潰すわ、魚で作った肥料で育てた野菜は食うわ、動物なら卵にあたる菜種で絞った油を疑問もなく使うわ、人工ファーはダサいとか、鳥の毛をむしったダウンは温かいとか、ルアーで大物釣ったとか、数十万の革のバッグなのとか、数千万の毛皮とか、馬鹿なの、死ぬの?

人が生きていくうえで、どれほどの命を奪っているか、本気で考えたらそんな恥知らずな団体に同意できないと思うのだが。

恥知らずというのは、自分の命が気の遠くなるほど多くの命の上に成り立ったものであることを認識せず、他人に生き物を殺してはいけないとか、自己満足な感情を押し付ける行為のこと。

ちなみにダニや蚊を大量虐殺するのは、恥知らずとは違う。単に無慈悲なだけ。汚物は消毒(ry

わたし鯨が好きだから鯨食うんじゃないわよカス、とストレートに言ってくれたほうがよっぽど納得できる。つまり、そういうことを知っていて保護活動に興じているか、知らないで踊らされているかの違いだ。私は前者の方が好感が持てる。

話が飛ぶようだが、今年、地デジチューナーを購入した私は、なんとはなしに NHK の番組を見ていた。

恒星間航行をした地球人を題材にした番組で、 2 億年の時間をかけて戻った地球にかつての面影はなく、ここが本当に地球なのか、どうすれば証明できるのか調査する、という物語だった。

大陸は移動し、合体を繰り返し、人類の痕跡は地や海の底に埋まる。都市や建造物は歳月によって侵食され、何かにコーティング保存されるような奇跡でも起こらなければ跡形も残らないくらい遠い未来の話だ。海から超大陸に吹く湿った風は、長すぎる距離を移動する間に乾いた風となり、中央部は乾いて砂漠化する。海流も不活性化するかもしれない。豊穣な海の姿は失われ、そこにかつての地球の面影はない。

月の距離を調べればいいんじゃね?

地球と月は 3.8cm/年 で遠ざかっているそうだ。現在の地球と月の距離 38万4400Km 。ということは、

0.038m * 2億 + 384,400,000 m = 392,000,000

本星から約 39 万 km 程度の位置に、ウサギが餅をついている衛星があれば、地球の可能性が高いだろう。

だが、彼が、人類のより確実な痕跡を発見したがる気持ちは分かる。

ネズミのようなキモレステスが、 6000 万年の間に人類の原型に進化したことを考えれば、 2 億年後の未来には、おそらく人類は存在しない。人間という種が続いていたとしても、人間のままで存在しているかどうか怪しい。もはや別の何かになっている可能性が高い。これは 6000 万年の間に、ねずみのような小動物が人類に進化した事実を見れば、さほど突飛な考えではないだろう。

まして、絶滅種はどれほどの数に上るだろうか。一種ならまだしも、生物分類上のや、それ以上の単位で絶滅している可能性だってあるのだ。

こうした現実の中で、保護保護言われても、私にとっては現実味がない。ひどい話だが「意味あるのか?」とすら思ってしまう。捕鯨船に体当たりして自分の船を壊すなんていう、頭の悪いデモンストレーションをしたピエロがあふぉなこと言ってるよ、程度にしか思えないのである。

また話は飛ぶようだが、 Muv-Luv というゲームに BETA というエイリアンが登場する。この BETA、人類とは意思が通じず、人類を駆逐しながらユーラシア大陸を席巻後、日本に南下して地球全土を覆いつくそうとしている。人類側は、大量というにも馬鹿馬鹿しいほどの数の BETA を、戦術機と呼ばれるロボットを駆使しながら戦うという内容。

私はプレイしたことがないので、 Wiki あたりから見聞きした内容で推測しているが、人類と BETA の関係って、今の人間とそれ以外の動植物の関係だよなあって思ったりする。

例えば人間は家畜を育てる。彼らにしてみれば、人間は餌をくれるいい人だ。しかし、ある日突然殺されてしまう。人間側に立つと、育てるのは獲れる肉の量を増やすため、個体数を増やしているだけなのだが。殺される側からしてみれば、意味が分からないだろう。

こういった例は、相手の形状が虫や微生物のように、人間とかけ離れていく程、無造作に行なわれることになる。たとえ彼らと意思疎通できたとしても、気づかずに殺すし、それに気づいていたとしても、殺さずに生活することなどできない。それはある意味仕方のないことだと思う。

人類は知識と知恵に磨きをかけたが、あるものは数に、あるものは大きさに特化した。30m オーバーのスーパーサウルスが、蟻を踏むと可哀想と考えるわけがない。それ以前に気づきもしない。それは弱肉強食以前の問題で、蟻にとっては天災と同じである。蟻は蟻で、大量の同胞を養うために、さらに大量の命を奪っている。それが生命の営みというものだ。

BETA に殺されまくっている人類側にしても、今まで自分たちが他の生命にやっていた事が、我が身に降りかかっているだけだ。自分の番がやってきただけなのだ。だからと言ってそれを黙って受け入れる必要はない。必至にあがき、生き残る努力をすることこそ、生物としては美しい。

そういうわけで、 NHK の番組に非常に影響を受けた私は、明日でも 1 年先でも人生でもなく、世紀でもなく、時代でもなく、歴史でもない。ネズミのようなキモレステスが人間に進化した時間以上のスパンで、超大陸パンゲアが複数の大陸に分裂し、さらに遠い未来に超大陸が形成されるという、気の遠くなるような数億年単位の時間で考えてしまうようになり、何事にも諦観してしまうのである。

頭で考えているだけだから好き勝手を言えるのもまた事実。そんな私でも、

葉っぱ一枚じゃ足りないw

YATTA – はっぱ隊

ヤッタ!ヤッタ!(ヤッタ!ヤッタ!ヤッタ!ヤッタ!)
大学合格
社長就任
葉っぱ一枚あればいい
生きているからラッキーだ

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